ガイドブック歴史

ヨーロッパ人入植以前

ヨーロッパ人入植以前ヨーロッパ人入植以前
18世紀の地図
【ヨーロッパ人入植以前の歴史】
オーストラリアには、元々、アボリジニとトレス海峡諸島民と呼ばれる先住民が暮らしていました。アボリジニは、少なくとも5万年以上前に南アジアからオーストラリアに渡ってきたとされ、トレス海峡諸島民は、約1万年前に、メラネシアからオーストラリア最北端に位置するヨーク岬とパプアニューギニアの間にあるトレス海峡に浮かぶ島々に渡ってきたと考えられています。彼らは、独自の言語、信仰、習俗からなる複雑な文化を形成し、非常に長い間、精妙な自然と調和して生きてきました。

15世紀以降、オーストラリアの海岸には、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランス、インドネシア、中国などの様々な国から探検家や貿易商人がやってくるようになりました。特に17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパの多くの探検家らが、伝説の大陸「テラ・オーストラリス・インコグニータ(南方の未知なる大陸)」を求めて、航海の旅にでました。中には、探し求めていた南の大陸とは知らずに、オーストラリアの沿岸部付近を通過した者もいます。1606年に、オーストラリア大陸とニューギニア島の間を記録に残る最初の西洋人として航行し、トレス海峡にその名を残したスペインの探検家ルイス・トーレスもその一人です。

イギリス植民地時代

イギリス植民地時代
19世紀の地図
【イギリス植民地の設立】
1770年、海図作成や科学調査のためオーストラリア大陸に上陸したイギリスの探検家ジェームス・クックは、東海岸一帯を探検して大英帝国による領有化を宣言しました。アメリカの独立宣言を受け、植民地としてアメリカを失った大英帝国は、当時、国内で問題となっていた刑務所の定員超過を解消するため、この新たな辺境の地を次なる囚人の植民地として利用することを決定しました。

1788年1月26日、イギリスのアーサー・フィリップ船長が率いる第1船団11隻が、後にシドニーとして知られることとなるポートジャクソンに到着しました。船団には約1,350名の入植者が乗船していましたが、その内の700名以上が囚人で、残りの乗員は将校や乗組員、海兵隊員など囚人の監督業務に携わる人々でした。彼らがシドニーに上陸し、入植を開始したこの日を記念して、1月26日は「オーストラリア・デー」と呼ばれる祝日となっています。

入植者らは当初、植民地政府から提供された安価な土地や供給物資を利用し生計を立てていましたが、痩せた土壌や干ばつ、地理的孤立状態などの多くの問題に直面したため、食料や衣料など多くの生活必需品の面でイギリス本国に頼る必要がありました。その後、自由移民として一般の入植者もオーストラリアに住むようになり、農作物の栽培や牧羊のため、徐々に新たな土地を開拓していきました。

1797年、一部の入植者らによってスペインからメリノ種の羊がもたらされると、国内の気候に適した産業を発展させる必要があると考えていた入植者による、慎重な繁殖と飼育の結果、世界で最も高品質の羊毛が生産されるようになりました。このような植民地活動の拡大に伴いメルボルンやブリスベン、ホバート、パース、アデレード等の町にも多くの入植者が移り住みようになり、これらの都市は新たにできた植民地の州都となりました。

こうした植民地の開発が進んでいく一方、入植者と土地を奪われた先住民との間で争いが頻発することにようになり、また、入植者らによってもたらされた病気や生活様式の変化により、先住民の伝統的な生活様式や習慣の多くが失われていきました。

ゴールドラッシュ時代
金鉱の坑夫の小屋
【ゴールドラッシュ時代の幕開け】
1851年に国内東部で金が発見され、ゴールドラッシュの時代が到来しました。イギリスをはじめアイルランド、フランス、ドイツ、イタリア、中国など世界中から一攫千金を夢見る人々が押し寄せ、翌年には約9万5,000人がオーストラリアに移り住みました。この頃、時を同じくして東海岸への囚人輸送が廃止されました(西オーストラリア州への囚人輸送は1868年まで続けられました)。

ゴールドラッシュ時代の幕開けとともに、全国各地に小さな町が誕生し、これらを結ぶための、幹線道路が整備されるようになりました。交通手段や交通網の発展に伴い、さらなる入植が進められ、イギリスから連れてこられた囚人と自由移民として入植した農夫や商人、建設従事者や鉱山労働者などがこの国の経済の基礎を築いていきました。

連邦政府の設立以後

連邦政府の設立以後
建国時の国会議事堂
(現在のビクトリア州議会議事堂)
【連邦政府の成立】
植民地経済の発展とともに、人々の中に入植者としてではなく、オーストラリア人としての意識が芽生え始めました。同時に、イギリス本土から遠く離れた植民地を統治し続けていくことの困難さもあり、各植民地に自治権が認められるようになった1850年代半ばより、連邦化実現に向けた動きが見られるようになりました。その後、国内におけるナショナリズムの高まりから連邦制を目指す声が一層高まり、1897年から1898年にかけて開催された連邦憲法制定会議で連邦憲法が起草され、この憲法を含む法案が1900年にイギリス議会を通過しました。翌1901年1月1日にこの法案が正式に施行されたことにより、かつての植民地を州と改め、州の統合体としての国家オーストラリア連邦が成立しました。

【首都キャンベラの建設】
連邦成立当初、新生国家の首都をどこに定めるべきかで多くの議論がなされました。当時、大都市となりつつあったメルボルンとシドニーの間で激しい首都争いが繰り広げられましたが、最終的には両都市のほぼ中間に位置するニュー・サウス・ウェールズ州により分割された地に、首都キャンベラが建設されることになりました。1927年、それまで一時的に首都として機能していたメルボルンから連邦議会や首都機能が移転され、キャンベラが正式に連邦首都となりました。

【20世紀のあゆみと現在のオーストラリア】
20世紀に入りオーストラリアはニ度にわたる世界大戦を経験しました。10万を超えるオーストラリア人兵士の命が失われたこれら大戦の結果、民主主義のために戦った自国民を誇りに思う強い感情が国民の中に芽生えました。そして、この国民感情が、オーストラリアという誕生間もない国家の国民性を確立する上で、重要な役割を果たしました。

1929年に全世界を襲った大恐慌は、オーストラリア経済にも大打撃を与え1930年代後半頃まで、国民の約3分の1が失業状態を余儀なくされました。しかし、その後迎えられた第二次世界大戦では、戦時物資の調達などを理由に工業生産が進んだことから、国内経済は徐々に回復してきました。1950年代に入ると、第二次世界大戦後の復興と急速な経済発展に伴い、多くの移民が受け入れられるようになり、国内の経済活動を支えました。

経済力の高まりとともに、オーストラリアは国際社会においてもより一層建設的な役割を果たす国へと変わっていきました。オーストラリアは、国際連合の創設メンバーとしてその設立を強力に支持しました。そして、現在、国連が多くの国で実施している平和維持活動において積極的に役割を果たしています。また、アジア太平洋地域においても、日本とともにアジア太平洋経済協力(APEC)の設立を提唱するなど、主導的な役割を担っています。

21世紀のオーストラリア社会は平和と繁栄を享受しています。生活水準は世界でもトップクラスにあり、文化や技術は高く評価されています。連邦国家の成立から1世紀あまりを経過した今日、オーストラリアは国家のさらなる発展と現代国際社会における地位の向上を目指しています。